大悲山 観音院 普門寺(だいひざん かんのんいん ふもんじ)
真言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)
永禄年間(1558〜1569)
盛源
第29世 清水義英
永禄年間 (1558〜1569) | 盛源が普門寺を開山する。 この当時の日本の出来事
1560年 木下藤吉郎(豐臣秀吉)、織田信長に仕える。1560年 桶狭間の戦い 1561年 第4次川中島の戦い 1567年 伊達政宗誕生 |
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1697年(元禄10年) | 武蔵国三十三観音札所が出来る。普門寺が19番札所となる。 |
1812年(文化09年) | 唯阿僧正が、真言宗豊山派総本山 長谷寺の第三十九世能化(のうけ僧侶社会において長老、学頭などの指導者のような存在を呼ぶ。)になる |
1825年(文政08年) | 唯阿僧正滅後、長谷寺から唯阿僧正御愛用の緋法衣が賜与された。 |
1873年(明治06年) | 川崎学校の分校が、普門寺におかれ、木曽根村と二丁目村の児童が就学 |
1875年(明治08年) | 川崎学校の分校が独立し、木曾根学校となり、普門寺におかれる |
1886年(明治19年) | 木曾根学校廃校 |
1923年(大正12年) | 関東大震災で被災 |
1939年(昭和14年) | 第二次世界大戦勃発 |
1941年(昭和16年) | 梵鐘戦時供出 |
1945年(昭和20年) | 学童集団疎開地として本堂を提供。第二次世界大戦終結 |
1984年(昭和59年) | 現在地へ移転 |
大悲山観音院普門寺は、盛源が永禄年間(1558〜1570)に武蔵国木曽根村の里に開いた寺で、現住職までに二十九世を数える古寺です。
盛源が普門寺を開創されたのは、弘法大師の教えを近在の人々に説くための道場としてでした。
盛源を先師開山と称え、その後法燈四百有余年間の中興の祖は、法流開山が祐運和尚、香衣祖が大雲唯阿僧正です。
唯阿僧正(大雲一阿)は、普門寺で得度(仏門に入り出家すること)し、真言宗豊山派の総本山長谷寺で修行を積まれ、再び当寺に戻り住職を勤められました。
唯阿僧正が普門寺の住職についた年は定かではありませんが、宝暦元年(1751)の先師追悼碑名に「大悲山大雲一阿」また宝暦11年(1761)の普門寺手洗盤に「大悲山普門寺主沙門大雲一阿書」との銘が記されているので宝暦年間頃には在住していたと思われます。その後、文化9年(1812)に総本山長谷寺第三十九世能化(のうけ・僧侶社会において長老、学頭などの指導者のような存在を呼ぶ。)に上がられた高僧であられます。
唯阿僧正滅後の文政8年(1825)、長谷寺から唯阿僧正御愛用の緋法衣が賜与されました。
この緋法衣と共に、当時の山門・扁額・手洗盤・版木などの品々が残され、寺宝となっています。
普門寺には明和4年(1767)鋳造の梵鐘、建立年代不詳の鐘楼堂がありました。梵鐘は太平洋戦争に戦時供出になり、その後、鐘楼堂は東京都文京区浄土宗深光寺に寄贈されました。
開山当時の普門寺は、武蔵国木曽根村にありましたが、近くを流れる一級河川・中川の改修工事という国家事業への協力の為に、弘法大師御入定 1150年御遠忌記念事業として、昭和59年10月に、現在地の南川崎へと移転しました。
新霊地には本堂・観音堂・庫裡等が再建され、山門・大師堂・石塔・樹木などが移されました。唯阿僧正の像も寺内に安置されています。
本堂内陣の荘厳や外置燈炉・外置香炉・天水桶・六地蔵などは、信仰あつい多数の檀信徒の寄贈・寄金によって支えられました。